早嶋です。2700文字。
戦後の日本政治を理解するとき、押さえるべきは「1955年体制」が成立するまでの流れだと思う。敗戦直後、日本はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下に置かれ、急速な民主化政策が進められた。財閥解体、農地改革、労働組合の育成等。そのどれもが、戦前の国家主義体制を否定する試みだ。この時期、政治は右も左も混乱していた。旧来の保守勢力は国体の維持を模索し、左派は労働運動や平和主義を掲げて急進化する。冷戦構造のもと、アメリカは日本を反共の砦として位置づける一方で、国内では「資本主義 vs 社会主義」という二項対立がそのまま政治の対立軸になっていった。こうして1955年、自民党と日本社会党がそれぞれ保守・革新の代表として結集し、「55年体制」が成立する。以後、約40年にわたって自民党が政権を維持し、社会党が常に負ける野党として機能する安定構造が続いた。
日本でいう「リベラル」は、欧米型の自由主義というよりも、「弱者を保護し、再配分を重視する左派的立場」に近い。社会党は労働組合(総評)を母体とし、福祉国家、護憲、反核、平等を掲げていた。一方の自民党は経済成長と安定を重視する「開発型保守」であり、戦後の奇跡的な高度成長を支えた。つまり、リベラル=理想と平等を語る野党、保守=成長と秩序を担う与党、という役割分担が成立していた。
しかし1980年代末、冷戦が終わり、グローバル資本主義の波が押し寄せる。国際競争が激化し、国家よりも企業、企業よりも個人が生き残りを競う時代が到来する。この瞬間、国家単位で「再配分」や「護憲」を唱える社会党の言語は、現実の経済システムと乖離していった。もはや「左」と「右」ではなく、「グローバルに適応するか否か」が政治的分断の軸に変わったのだ。この転換によって、55年体制の対立構造は意味を失っていった。
日本のピークは1996年前後だ。経済的にはバブル崩壊のダメージが顕在化し、日経平均は1989年の38,915円から1996年には半値の約2万円台まで下がった。企業の倒産が相次ぎ、非正規雇用が増加、終身雇用神話が崩れた。政治では1994年、社会党の村山富市が自民党と連立を組んで首相に就任。「保守と革新の対立」という構図は完全に瓦解したのだ。その後、社会党は自らの存在理由を失い、1996年には民主党や社民党に分裂。ここで戦後政治の「リベラルの軸」は事実上、消滅する。国民は初めて、「保守かリベラルか」ではなく、「現実に対応できるかどうか」で政治を選ぶようになったのだ。
同じ頃、若者たちは氷の中に放り込まれた。1993年から2005年ごろまで続いた「就職氷河期」では、新卒内定率が60%台にまで低下した。大学を卒業しても就職できず、派遣やアルバイトに流れる人が急増した。1999年時点でフリーターは約417万人、ニート(働かず学ばず)の数も増え続けた。彼らは「努力すれば報われる」と信じて受験戦争を戦い抜いた世代だった。真面目に大学に進み、就職活動に全力を尽くしても、景気のせいで門前払い。一方でバブル期に入社した少し上の世代は安定したポジションを維持している。この不公平感が、深い構造的裏切りの感情を生んだのだ。そして、「国の言う通りにしても報われない」という実感が、政治への不信を決定的にしたのだ。
努力しても報われない現実を前に、彼らは政治的な理想や運動に関心を失ってしまう。「どうせ何も変わらない」という諦めが社会全体を覆い始める。2000年代初頭、IT革命が始まるが、当時のネットはまだ限られた層のもので、議論は一部の掲示板(2ちゃんねるなど)にとどまっていた。しかし、2007年以降、iPhoneの登場とSNS(Twitter、Facebook、mixi)の普及によって状況が一変した。匿名のまま意見を発信でき、同じ不満を抱えた人々と瞬時につながれる。現実社会では口にできない怒りや差別的感情を、ネットの中では自由に表現できるようになったのだ。これが「表では沈黙、ネットでは過激」という日本独特の分裂的コミュニケーションを生み出すきっかけになった。そう、マイルド保守の感情的インフラが整い始めるのだ。
ここでいうマイルド保守とは、強いナショナリズムや排外主義ではなく、「日本を守りたい」「今の生活を壊したくない」という穏やかな保守感情を指す。造語ではあるが、思想ではなく気分としての保守を意味する。国家の方向性やイデオロギーではなく、「子どもが安全に育ち、仕事があり、生活が続く」という極めて日常的な安心を求める態度だ。それは右傾化ではなく、防衛反応なのだ。混乱する世界の中で、せめて自分の周囲だけは守りたいという願いがマイルド保守の根底にあるのだ。
一方、2000年以降に成人した若者たちは、成長のない国を前提に生きている。努力しても賃金が上がらず、住宅も買えず、将来の年金も不安。それでも彼らは氷河期世代のように政治を恨まない。むしろ、最初から国家や組織に期待していないのだ。彼らの生き方は、「変える」ではなく「適応する」だ。企業に忠誠を誓うより、転職や副業で自分のポジションを最適化する。社会に合わせて生きるというより、環境に合わせて自分をチューニングする感覚に近い。彼らにとって政治は、理念ではなくサービス。「どの政党が自分の生活を少しでもマシにしてくれるか」という待遇主義的政治観が主流になっているのだ。
現代日本には、次の二つの心理が共存している。
氷河期世代:努力を信じて裏切られた。政治に失望し、諦めを抱く。
若者世代:最初から努力神話を信じず、環境に適応して生きる。
前者は「政治に裏切られた」と感じ、後者は「政治に期待していない」と信じている。両者に共通したのは、政治を遠いものとして扱うことだった。そこに政治家が「日本を守る」「生活を安定させる」と語れば、左右を超えて共感が生まれたのだ。これがマイルド保守の感情構造で、今の日本政治を支える多数派だと思うのだ。
1955年体制の崩壊後、日本はリベラルを失い、保守もまた理念を失った。代わりに登場したのが、安定を信仰する社会だ。右でも左でもなく、「普通でいたい」「波風を立てたくない」という感情が国を支配している。マイルド保守とは、政治の右傾化ではなく、むしろ、希望を失った社会が選んだ穏やかな防衛反応なのだ。誰も革命を望まず、ただ「平和な日常を守りたい」と願っている。そしてその願いこそが、現代日本における最大のイデオロギーなのだ。









