植物との対話

2019年4月18日 木曜日

早嶋です。

大の大人に、じわじわと来ている植物ブーム。車好き、建築好き、料理好き、不動産好き、ワイン好き、多種多様な趣味にハマっていた大人の一部が植物にハマっている。なぜだろう。

例えば、仏像。ガンダーラ仏像や日本古来の仏像など、初めは見仏のみだったが、だんだん煩悩がマックスになり、最後は仏欲、所有欲が湧き始める。すると、様々な情報網を駆使して仏のオーナーに掛け合い譲ってもらう。今はネットで検索して仏を見定めてチャットやメールで交渉と媒体は変わったものの基本的な流れは同じだ。しかし続けていくうちに、収集していくうちに気がついてしまうのだ。仏を手に入れた瞬間に満足度がピークになり、その瞬間から次の仏を探し始める。煩悩スパイラルの真っ只中にいることを。

車、お酒、不動産。形あるものはすべて共通で、手にい入れるまでは楽しいのだが、手に入れてしまうと途端に次の物に目移りするのだ。これはジョブ理論で言えば、多くをビックハイアにフォーカスしており、本来のその後、つまりリトルハイアで楽しめないという遊びなのだ。

そこに植物で考えてみよう。大人(ここでは、いい年した男性をメインに指す)は珍しい植物に目を向けている。思うに、探す楽しみもあるけれど、植物を育てるためにはそこからの世話が欠かせない。水やりや日光の当て方、そして気温や湿度、風の管理。多くの植物は、本来日本と違った環境や気候で育っているため、少なくとも少年のような大人が現時点でワクワクする植物の多くは、日本の環境で育てるとすぐに枯れてしまう。だからといって、とてもむずかしいものでもない。少し工夫すると、つまり、その環境を擬似的に再現することで、ある程度の知識をつけながら誰でも長く育てることが出来るのだ。モノと違って、購買後の楽しみが継続するのだ。

ただ、この時点で面倒だ。と思う人は、植物の世界に没頭する大人を理解することは難しいだろう。更に昔から盆栽は大人のたしなみ、あるいはブルジョワのたしなみの一つだったが、今の大人が愛でる種類はちと違う。対象とする植物は和モノではなく洋モノのが多いのだ。しかも花も咲かないし実もならない。だけど、盆栽のように10年単位の変化を愛でるのではなく、一応は乾季や温暖の差での植物の変化を楽しめる。単位として1日とか1週間とかのレスはないが、1ヶ月とか1年以内の変化で十分に楽しめる程度の成長がある。

植物は動物と違って、音声や明確な感情は持たない。したがって、いい距離感を常に保てるのも大人がはまるポイントの一つだと思う。決まったルールで水やりや日光に当てるなどの世話をする。ルーティンやルールを無視した世話をすると、本来の気候を再現できなくなるのことを意味し、植物を枯らしてしまう。しかし、それは2、3日程度のものぐさで枯れるようなやわな奴らではないので、比較的忙しい大人でも時間をかけて、継続的に世話と対話が楽しめるのだ。

世話をしているその瞬間、植物のことしか考えないから、仕事やちょっとした人間関係などの雑念、つまり日常的な仕事やそこに関わる人間関係のストレスから開放される。ある意味解脱した瞬間を味わえているのかもしれない。また北欧的な表現を借りるとヒュッケな時間を得られることになるのだ。植物の価値は、世話や植物との対話の中で自分と向き合う時間や、それを無意識に習慣として生活に取り入れることにあるかもしれない。それが今大人の中でハマっているヒトが続出している理由なのではないかと考察してみた。



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