効率と非効率のはざま

2017年11月25日 土曜日

早嶋です。

富を得ると人は無駄なことにお金を使いたくなるのではないか。実際に自分で動いて、手を動かして、汗水たらしたモノを作り出した時に、或いはそのような経験を行っている時に、初めて人は価値を感じるようになるのではないか。ただそれは富めている人の主張かもしれない。

21世紀の資本の著書、トマ・ピケティはr>gを提唱した。資本の成長スピードは、労働によって得られる賃金の成長よりも遥かに率が良い。従って持てる者はより豊かになり、持たざる者はより貧しくなる。それは一世代に限った話ではなく、生まれが裕福であれば少子化により富が子供に更に集中しより豊かになってゆく。ピケティの主張は確かに経験的にも正しいと思える。

複数の経営者とともにそのビジネスの効率を求めていく。時間の経過とともに成果が出始める。ビジネスが順調に動き始める。企業は人手や意思決定が少ない状況で資本が回る仕組みを作ることを目指していく。従って全てにおいて合理性が求められる。しかし、これが出来上がるほどに安定と富と時間が手に入るようになる。急に自分が不安になるのだ。

成功者には慣性の法則が当てはまらないのだ。動いている時には安定を求め、安定してる時には激しい時期を求める。一定のバランスの中で動いていれば良いのだろうが、極度に成功を納めるとまた、極度に振りたくなるのだろう。

ある人は、世界が急につまらなくなりエクストリームスポーツや武術にハマる。トライアスロンやウルトラマラソンなど魂との戦いに自分を追い込み、ひたすらに生きていることの喜びを実感する。ある人はスポーツチームを買収して、彼らが競い合う中で自分の拠り所を見つけようとする。別の人は、アーティストの情熱に没頭してパトロンとなり、彼ら彼女らが表現する究極の姿に情熱を燃やすようになる。これは美食に進む人もいれば、植物にハマる人もいある。

ビジネスでは1分、1秒を投資と考え合理的なリターンを得るのに対して、その世界になると普段の時間や資本を切り詰めて徹底的に使いまくる。遊びの世界だ。徹底的に無駄の塊なのだ。しかし、その両極端がバランスを取れている状況がある時は極度の緊張感からも解されて開放されて精神が安定するのかもしれない。

ひょっとして人は神を創ったのかもしれない。安定していて、普通の、中途半端な状態が幸せだとする思想に対して、追い求めても手に入ることのない究極の郷里があるかもしれないと空想して、今を否定することで楽しみを見出してしまう。りんごをかじったことが全ての始まり。確かに、そのような世界を知らなければずっと井戸の中の蛙でいられる。



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