次の世代に

2016年4月8日 金曜日

早嶋です。

幼稚園の記憶といえば、父親がサイドカーに乗って迎えに来たことくらい。しかし、人生の中で1つのコミュニティに生きた初めての経験だった。来週から息子がそのコミュニティに入る。正確には凡そ半年間プレという名のもとに妻と週に1回通っていた。小さいながら感じるものが多かったと思う。

特に何か特別な所を選択しない限り、小学校は住環境によって決まる。同じ程度、地区の生活レベルの子どもが集まり6年間の義務教育がはじまる。中学校も同じだ。自分たちで選択しない限り、住んでいる環境に概ね依存する。9年間の義務教育期間は、生まれ育った環境、親の環境、育ての親の環境に制約があり、その延長で校区が決まる。

これらが高校になると一変する。何らかの受験があり偏差値なのか、運動能力なのか、或いは他の能力なのか。いずれにせよ迎える側の基準を超える何らかの能力を要求され、それに見合ったものが入学を許可される。従って、義務教育期間と異なり一定の基準に従ったコミュニティに属することになる。

大学はもっと如実だ。高校よりも狭い範囲の専門を学ぶ集まりだからだ。しかし、親からの自由度が高くなり、ある程度独立した中途半端な自由と中途半端な束縛の中で4年、6年、人によってはもっと長い時間を過ごすことになる。

そして社会に出る。

日本企業の採用は、20年も30年も前から続く大量採用、大量育成が今でも続く。そのコミュニティに属した若者は、戸惑いを隠しきればい。当たり前であるが当人にとっては不安でしょうがないだろう。4月は強制的な研修が続き、目的も良く分からないままひたすら受け続けなければならない。

企業によっては、大学での成績や本人の能力を度外視した幼稚園児扱いの教育もある。しかし、そのような中、世界では新卒採用は通年行われ、本人との契約は都度都度交渉され、互いの利害が一致されれば採用が決まる。当然、はじめから役割や仕事内容が決まっている。

日本が一気に成長していた時代。大量採用大量教育は間違っていなかった。企業が目指すべき方向が明らかで、それを達成するための手法も経営陣が中心に考えて、展開された。社員は、効率よくその手法を間違いなく繰り返す人材が優秀とされた。

しかし今は違う。トップの方向性はブレ、いや、見えなくなりつつある。大資本であろうが小資本であろうが、何かに取り組む際のハードルが一気に縮まっている。情報が瞬時にやり取りができるようになり、全ての行動がリアルタイムで可視化評価されるようになる。優秀なものは組織を超えて評価されるためごまかしが効かなくなっている。自分が考えた方向性を信念をもって愚直に貫きとうす。

誰もができる仕事は、コンピューターによるアルゴリズムか、アウトソースかに回される。おおきな資本を持つ組織よりも、小さな資本で世界で仕事をする組織に流れが向かう。一方で、過ちを認めたら事前の考えを変え、別の選択肢を試す柔軟性を備える。短いスパンで一期一憂するのではなくある程度長い時間で自分や組織の成果を見ていく余裕を持つ。何に対しても楽しみ、チャレンジする精神と行動を伴うことを忘れない。

これは正にいま3歳の息子が毎日の遊び、毎日の生活、妻と接する中で実践していることそのもののように思う。こから20年位、自分の意志とは異なる組織に属し、場合によっては反抗したくなる指示もくるだろう。都度都度悩み苦しみ考えて、自らの考えを見出して欲しい。そして自分の意思を持ってやりたいことを徹底的におこなう。親はそららを見守り、子どもの意思を実現するための最大の最も身近な支援者になる。

互いにそんな存在であり続けよう。



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