偏差値は全てじゃない。

2011年11月20日 日曜日

偏差値70の同期がいると、何故か一目置いてしまった過去の自分。国語の偏差値はひどい時は30後半で50を超えることは殆ど無かった。偏差値とは、確率分布の平均値を50に置き換え、標準偏差を10にしたもの。偏差値50は平均、60は上位15%前後、70は上位1%前後と、一目で序列が分かる。義務教育を終え進学するにつれ、自分の能力は偏差値によって定義され、なんとなく人生が決まって行くかのような錯覚を覚えた。

しかし、社会に出て仕事をし、更に起業して思ったことは、偏差値は単なる評価基軸の一つだということ。当たり前だけど、偏差値が高いからといって、ビジネスで成功するとは限らない。偏差値が高いからといってハッピーな生活を送れるとは限らない。強烈なリーダーシップ能力が重要な局面も在れば、まったく違った能力が役にたつことも多々在る。偏差値を否定するつもりも無いが、全てではない。アートのセンスや感覚、運動能力。世に出れば様々な評価軸が無限に存在する。大切なことは、自分が何をしたいのか?自分が最も花を咲かせる分野は何か?偏差値に関係なく、自分が行いたいことに対して、継続的に突き進む能力が大切だと思う。

過去受けて来た教育では、偏差値が低ければ、その夢は無理だと言わんばかりの環境だったと思う。高校の進路指導も考えてみればお粗末だった。偏差値が高い人は、理系だったら国立大学の医学部。少し低ければ歯学部を進められる。文系だったら国立大学の法学部、若干低い偏差値だったら、次は地方の国立大学と言った具合。本人の意志とは関係なく受ける大学が決まっていく。将来のことを考えて、私大を選択すると、君の偏差値なら私大はもったいない。旧帝国大学を受けるべきだと助言される。うーん。

考えてみれば高校の進路指導とは一体なんだったのだろうか?自分のビジョンと関係なく、ただ偏差値が高いか低いかだけで、生徒に対して指導が行われて来た。通った高校が進学校であったので仕方が無いことかもしれない。しかし、教育の多くは、義務教育の延長。考えるというよりは、正しい唯一の答えを導く発想を鍛えられた。答えがある世界で思考する訓練だ。しかし、今の世の中、答えを探してもしょうがない。過去の事象をそのまま繰り返し将来に用いても、当てはまらないことが殆どだから。

教育を受ける中で、正解と間違いに二分される。間違いのレッテルを貼られ続けると、何だかとってもやる気がなくなってくる。仕舞には、自分は相当に頭が悪いのかもしれないと勘違いして、本当に考えることを辞めてしまうこともあった。しかし、生徒が40人いたら、40通りの考え方が在るのが普通だと思う。そもそも人は違うのだから、皆が同じ発想を持つことのほうが気持ちが悪い。しかし、過去の教育は、文科省の教育方針と違った考えは、全てが不正解。

モラルや倫理と言った最低限守らなければならないものには共通のルールは在るでしょう。しかし、理窟や理論、過去言われていたことは、新しい発見によって覆されることが在るかもしれない。徹底的に正解か間違いを追求する環境で育って行けば、少し目立った人や、その業界で活躍している人が言った発言や考え方を鵜呑みにする。これは恐ろしいことだ。

今からの世の中、自分の考えをしっかりと持つことが大切だ。自分の考えを持つということは、様々な確度で世の中の事情を観察することが必要。右から流れた情報を左に流すのではなく、自分の脳みそというフィルターを通して、何故なのか?を常に持つことが大切だとおもう。自分の生き方だから、人がなんと言おうと、自分のハッピーな生活を送れるように、自分をコントロールすることが大切だと思う。もちろんそのためには、自分のビジョンをしっかりともち、足りない自分が身につけなければならない知識や経験を知り、計画的にそのギャップを埋めて行く。こんな発想で生きて行けば、間違いなく人生がハッピーになると思う。



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